父 13回忌~回想録 前編~

皆さん、こんにちは!!

今年に入って、はや半年。

もう6月も終わりですね。

この6月は私達の会社の年度末でもありますが、社員達の努力のお陰で、この乱高下している時期にも関わらず、まずまずの決算が出来そうです。

決算というものは、経営者にとって1年の通知簿の様なものだと考えています。

変化が激しく、その移り変わりが早い時代にあっては、今まで以上に私達の目標実現スピードが求められます。

今年度、出来た所もありますが、残念ながら出来なかった所もありますので、また次年度に向けて戦略を練り直し、来年度の通知簿が満点となる様、社員と共にスピードを持って挑んで行かなければならないと考えているところです。

さて、話は変わりますが、ちょうど先週の日曜日(23日)、父の13回忌の法要を執り行いました。

ということは、干支が1回りし、あれから丸12年経ったことになると同時に、私も社長という職責に就かせて頂いて12年が経過したことになります。

12年前と変わらず、大勢の方々にお越し頂いた有り難さと、無事、法要を執り行えたことに安堵しています。

「当たり前の生活を、当たり前の様に営める」、これが一番尊く幸せなことなんだと、改めて気付かされた12年でもありました。

そんなことを考えると、法要中、これまでの父との思い出が、走馬灯の様に頭を駆け巡っていました。

私が小さい頃の父との思い出も甦りましたが、特に一緒に仕事をし、私が仕事の本質に気付いてから、会社の方向性や戦略について、侃々諤々と議論したのを懐かしく思い出していました。

フックという部品を内製する時、香芝工場を建設する時などなど、思い出したらキリがない位です。

その中で、最も色濃く思い出されるのは、東京営業所設立のことです。

私達家族が東京へ移ったのが、15年程前のことです。

父は健在でしたが、会社の売上が下がり拡販の為に、東京へ行かなければならないということでした(当時は経営には携わっていなかった訳ですが、経営が逼迫していたのだろうと容易に想像がつきました)。

バブルが弾け、創業事業である、バネや金属部品の受注が、もう大阪では伸びないと判断をしたのでしょう。

父は自ら東京へ行くということでしたが、身体も患っており、とても行かせられる状態ではなかったので、私が大阪のマンションを売り払い家族を連れて「成功するまでは帰らない」覚悟を持って行くことにしました。

その話を家族にすると、家内と長男は大反対でした。 娘2人はまだ小さかったので、事の重大さはわからない様で、特に反対はありませんでした。

家内は、長女で自身のご両親のことを気にかけている様で…、長男は小学校を卒業する年齢でしたので、反対するのは当たり前のことだと理解できましたが…

それでも、会社が上述の内容だろうと思いましたので、「誰かが行って、早急に結果を出さなければ、家族も、互いの両親も、妹達も、そして社員の方々をも守ることが出来なくなる、サラリーマンの方々やったら転勤なんて普通のこと、まぁ東京見物しに家族みんなで行こう!」と説得をし、半ば強引に東京へ移住したのでした。

そこで、当初、父が見つけてきてくれたアパートを下見に行きました。

それは、御徒町という所にある、築何十年か?経過している木造アパートで、横の階段を登った2階の部屋でした。

父が申し訳なさそうに「東京の家賃は高こうて、今、社宅として経費で出せる範囲やったらこれ位やねん」と。

そのことは理解した上で、こんなことをいうと贅沢なことかもしれませんが、キッチンと6畳2間で、事務机などを設置すると6畳1間で家族5人が生活をすることになります。

今まで当たり前の様に生活していた環境とは随分変わってしまいます。

やはり、子供達の成長や生活環境を考えると、御徒町では生活が出来ないと判断をし、別の物件を探し、そこを拠点として活動をすることにしました。

ただ、目ぼしい所は、家賃も高く、会社から出ない足らずの分は、給料から差し引いてもらうことにしました。

更に、大阪のマンションを処分して行ったのですが、ローンが残ってしまった為、ローン+家賃を抱えての船出となりました。

加えて、東京の物価は高く、教育費もバカになりません。

また、活動経費は月5万までと言われていましたので、それ以上は全て自腹ということで、財布の中身は数円ということも珍しくはありませんでした。

当時は経費を抑える為、夜行バスで大阪・東京間を移動したものでした。

今、振り返ると懐かしい限りです。

当初、よく家内から「何故?私達だけ、こんなに、しんどい思いをせなアカンの?」と言われたものです。

今で通りの当たり前の生活から、極貧生活になっていました。

客観的に見ると家内の言う通りでしたが、私の中では、お金は無くても、全ての人達の為に……

そんな使命感と責任感だけが私の背中を後押ししてくれ、私自身は高いモチベーションを保ちながら、休む間もなく、東京の街を駆けずり回っていました。

家内にも、電話番、初動活動のテレアポやDM送付などを手伝ってもらいながら、営業展開をし、父との約束である売上は数ヶ月で達成が出来ました。

達成した時、電話口での父の安堵の声は今でも耳に残っています。

それから、順調に売上を伸ばし、1999年~2000年に掛けて、車椅子の部品の引き合いが入って来ました。

今後の日本の市場を考えて、介護機器などを扱っている会社にアプローチを掛けていたのです。

私は、次の事業展開を見据えた時、介護市場は伸びる市場だと考えていましたので、部品だけの受注ではなく、完成品まで当社に造らせてもらうことはできないものか?と先方に掛け合っていて、結果的に良い返事をもらうに至りました。

直ちに、試作に取り掛かりました。

私は「私達は、部品が造れるのだから、その1つ1つの部品の固まりが完成品みたいなものや」と楽観視していましたが、なかなか思う様にいきません。

2000年の10月頃、ようやく試作が完成し、本格的に量産の流れが現実味をおびて来ました。

2000年12月、先方との商談の席に父も大阪から来ていました。

12月とはいえ、その日は比較的暖かかったと記憶していますが、父は風邪を拗らせたか?コートをはおり、マフラーを首に巻き、「ちょっと体調が悪いねん」ということでした。

私は「帰ったら必ず病院へ行って見てもらわなアカン」と釘を指しておきました。

その日の商談は、量産の専買契約をかわす目的と、且つ、資本提携という内容でした。

その帰り道、その事について議論を父としました。

結論は、「良い話やけど、まだ、うちの会社には、そんな余裕はない、もし、お前が個人的に出来るんやったら、したってくれたらええがな」ということでした。

随分と悩みました。

しかし、客観的に見て、今の部品メーカーの延長線だけでは、100%先細りすることだけは間違いない…これだけは明らかなことでした。

断腸の思いで、個人的に用立て、資本提携をし、製造の専買契約を結び、車椅子の製造を一部始めたのでした。

年が明けて2001年、父に「病院へ行って検査してもらったか?」確認をとったところ、行き付けの町医者で血液検査をし、以前より数値が良くなっていたと嬉しそうでした。

「まぁ、それやったら風邪やったんやな。気いつけんとな」と私も安堵しました。

父が亡くなる、6ヵ月前のことです。

車椅子も量産に入りましたが、なかなか量産体勢が構築できず、歩留まりが悪く苦戦を強いられていました。

そこから暫くして、先方の会社が今度は、大手商社と資本提携をするという話が浮上しました。

当然、私にも株主ですので話がありました。

大変、良い話なので私も積極的に進めました。

ただ、時価評価ですので…当初資本からは随分安く買い取られてしまいましたが…。

その際、その大手商社から車椅子5億円分の内示注文がありました。

私は、量産に不安を抱えていましたので、その解答を保留し、父に相談をしました。

「前渡しとして半分振り込み、あとの支払いは納品後に…という話やけどどうする?」

もし、資金繰りで困っていたら、喉から手が出る位の金額でした。

しかし、私の中では、まだ量産体勢が出来てないし、この先の見通しもまだついていない段階なので、もし受注して失敗したら、大変なことになると考えていました。

父には相談したものの半ば「断れ」と言って欲しい……そんな気持だったのです。

父は「まだ、製造がそんな状況やないし品質的に無理や」ということでした。

私もホッとしました。

商社にお断りの連絡を入れ、新事業は時期早尚との決断で、その事業からは撤退をしたのでした。

今、振り返ると、会社や社員に迷惑をかけずに済み良かったと思います。

私自身の代償としては大きいものになりましたが、良い勉強をさせてもらったと考えています。

失敗には終わってしまいましが、この一連の新しい事業を…という思いで、父と取り組んだ時間は私にとって貴重な財産となっています。

その新事業の創設以外は比較的順調に売上を伸ばして行くことが出来ました。

そして、いよいよ本格的に営業所を構える運びになりました。

2001年3月31日のことでした。

東京に来て丸3年の月日が経っていました。

東京営業所、移転の日、体調が悪そうでしたが、父も駆け付けてくれました。

父からすると、積年の夢が叶ったということだったんだろうと思いますが、あれだけ喜んでいる父の姿を見たことはありませんでした。

その翌月、大手病院に緊急入院をし、医師から私に伝えられたのは、余命3ヵ月という死刑宣告でした。

誰にも言えませんでした。

1人で抱えることにしました。

目の前が真っ暗になりました…。

色んなことが頭を過りました…。

数ヶ月前の検査では問題ないということだったのに、どういうことだ…。

その日の晩は、部屋で1人、涙が枯れるまで泣き明かしました。

翌日からは覚悟を決めて……。

そして、それから僅か約2ヵ月、父がこの世を去ってしまうことになります。

その時のことは今でもハッキリと覚えています。

亡くなる僅か前、私を見て、声にならない声で「行くわ…」と。

私は「後をしっかり頼むぞ」という気持ちだと感じ取っていました。

そして、私は静かに父を見て、大きく頷いていました。

父と息子の「あ・うん」の間合いでした。

それから暫くして父は、息を引き取りました。

私が満40歳の時でした。

(あまりに回想録が長くなりますので、続きは来週にさせて頂きたいと思います。申し訳ありません。)